和田玉7000年の歴史

和田玉は7000年もの長い歴史があります。
特に、商の時代の玉、周の礼玉、秦始皇帝の印環の玉(御璽)、漢の時代の玉衣、唐の装飾玉、宋の観音玉、元の山大玉海、明の子岡牌、清の彫刻の玉など、各時代の有各な芸術品が見て取ることが出来ます。玉器は歴史の政治、文化、道徳、宗教面などの各方面に特別な役割を果たしてきました。

歴史を知ろう

この記事は、参考文献:2011 骨董品オークション年間(湖南美術出版社)より、原稿・写真転載しています。

紀元前5000年~紀元前2100年

紅山文化:玉人捉竜像

紅山文化:玉人捉竜像

人類は石よりもっと美しい玉石を発見し、主に農耕農具や武器、祭祀や簡単な装飾品に利用しました。古書「端応図」や「尚書」の中に、「黄帝の時、西王母が使いを遣わし、白い鹿に乗ってやってきて、黄帝に白い環の符環(めでたい印)を献上させ、舜の時代にもまたやって来て、白い環を献上した」と記載されています。
また、楼蘭の遺跡に新石器時代に使った和田白玉で作られた石斧が見つかったり、仰龍文化、良渚文化の遺跡にも白玉を彫刻して作った祭祀器が発見されています。

紀元前2100年~紀元前770年(夏、商、西周)

周:青玉紋環

周:青玉紋環

中国の青銅器の発明により、玉器は実用を主とするものから「礼儀、装飾」を主としたものに変わってきました。そして、支配階級の構成を象徴する印(証)となっていきました。玉で作った器具は政治、道徳、宗教、倫理などの多くの分野で重要な役割を果たすようになり、「玉を持って六器を作り、天地田矛を礼す。」「玉を持って六端を作り、国事を正す。」「君主は玉を持って公候大臣を召見す、公候大臣は玉を持って君主に仕える。」など伝えられてきたとの記載があるほどです。
この様にして、和田玉は中国数千年の封建社会の歴史に、至大な影響を与えていくのでした。

春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221)

戦国:白玉紋壁

戦国:白玉紋壁

国の全ての政治、経済、軍事の中でも玉は重要な役割を果たしましたが、玉器の宝物の強奪などの多くの事件も起こりました。
この時期、各諸国の首都では玉の工芸品を生産するようになり、一般の文化人にも浸透し、諸子百家は利用玉の特徴に着目し、道徳観の理想と概念のイメージ作りにも大いに活用されました。
人々は玉を通して自然の美しさを導くようになり、工芸品が多種多様な方向に向かって盛んに発展することになりました。

秦、漢、魏、晋、南北朝(紀元前221~紀元589)

漢:白玉紋壁

漢:白玉紋壁

この時期は、白玉の彫刻工芸が大きな発展を遂げた時期です。
秦の始皇帝は、「四方の珍材を窮める天下の巧工を集める」と指示し、始皇帝の白玉の印章「伝国璽」を作りました。これは有名で、精密で綺麗に仕上がり皇帝の気概を示している和田玉と言われています。
漢の時代は中国の玉工芸が発展をとげた黄金時代でした。
積極的に玉器の種類を開拓して、礼器、葬玉、佩玉、玉の飾り物の四種類が特に発展しました。どの時期の彫刻も、表情、模様が滑らかな曲線で表現されました。

隨、唐、五大、宋(紀元589~紀元1279)

宋:黄玉瑞獣

宋:黄玉瑞獣

この時期は、国内外の経済、文化交流が盛んになり、伝統的な玉彫刻にも影響し、金と銀を合わせた新しい五器などの作品も出てきた時期です。
唐代に入り、国が富み民が栄えると、多くの和田玉が採掘され、社会で玉を使う気風が日々盛んに流行しました。
宋代には、玉を使うのが更に盛んになり、白玉の彫刻も次第に円熟の域に達し、文房具や遊び用の小物や小さい飾り物が大量に現れてきました。例えば子供象、鳥類、果物など、形やデザインが自由で生き生きしていて細工も精巧になり、宋代の玉の彫刻は、中国古代現実主義の最高水準の作品になっていきました。

元、明、清(1279年~1911年)

清:白玉観音像

清:白玉観音像

この時期、元の時代代と明の時代を合わせた400年間で新彊の玉が1500トンにもなり、玉の彫刻工芸は凄まじい勢いで発展しました。元の時代の支配階級は、玉を好み全国各地の有名な工匠を招集し各地で玉器を製造させました。
この頃の作品は生き生きとして写実的な独特な特徴をしています。
明の時代には、玉の工匠は北京や揚州などの都市に集められ、多くの素晴らしい玉の芸術作品を作り出しました。炉、瓶、壺を基本的な形とした、様々な芸術的な玉器が現れる様になり、北京の故宮に秘蔵されている作品「梅花花挿」は、明の時代代の玉材料の質と枝術の高さを示す、ずば抜けたレベルに至っています。
清代は、新彊の武装反乱を鎮圧したので新彊社会が安定し経済も発展しました。乾隆25年から嘉慶17年までの42年で、200トンあまりの玉材が使用されました。
康(熙)雍(正)乾(隆)の三代皇帝は皆玉器が好きで、宮廷に専門の玉の加工工場(玉作)を設立しました。中でも乾隆皇帝は、格別に古い玉に関心を持っており、自ら玉工場の生産を指導したと言われています。清代の玉の工芸は細工が良く、表現も多種多様でその芸術のレベルは高度に発展につながりました。

近代、現代、当代(1911年~)

和田玉 羊脂玉

和田玉 羊脂玉

清王朝が崩壊して、中国の玉彫刻の経営は苦心惨憺たる状態になりました。
しかし20世紀(1940年代末)に、新中国が誕生し、玉の彫刻工芸は明るい道が開けました。北京、揚州、上海、天津、広州、遼寧や新彊などで、相次いで彫刻技術と伝統が受け継がれたことで、さらに発展できるようになったからです。
20世紀(1960年代)以後、彫刻技術の流派も多くなり、「北派」「揚派」「海派」「南派」の4つの流派が形成され、それぞれの玉彫刻のデザインと技術が繁栄していきました。

中国7000年の玉文化は今日に至るまで発展し続け、すでにいたるところで素晴らしい成果を見せています。北京オリンピックでも、メダルに和田玉が使用されたということで、和田玉の価値が上がっています。

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